天声人語
朝日新聞 2009年10月9日(朝刊)
あす10月10日の「目の愛護デー」は、一〇と一〇を左右の眉と目に見立てて定められた。3月3日は「耳の日」で、こちらは語呂合わせである。一緒にして「耳目」などと呼ぶが、言われて気がつく違いがある
〈眼は、いつでも思ったときにすぐ閉じることができるようにできている。しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。なぜだろう〉。寺田寅彦の断想だが、なかなか示唆に富んでいる。
音をめぐるトラブルが、近年増えている。飛行機や工場といった従来の騒音ではなく、暮らしの中の音で摩擦が相次ぐ。先日はNHKテレビが、うるさいという苦情で子どもたちが公園で遊べない実態を紹介していた。
東京の国分寺市は今月、生活音による隣人トラブルを防ぐための条例を作った。これは全国でも珍しい。部屋の足音、楽器、エアコンその他、今や「お互い様」では収まらなくなっているのだという。
「煩音」という造語を、八戸工業大学大学院の橋本典久教授が使っている。騒音と違い、心理状態や人間関係によって煩わしく聞こえる音を言う。今のトラブルの多くは騒音ならぬ煩音問題らしい。ひとびとのかかわりが希薄になり、社会が尖れば、この手の音は増殖する。
「音に限らず、煩わしさを受ける力が減退しているのでは」と橋本さんは見る。誰しも、耳を自在に閉じられぬ同士である。ここはいま一歩の気配りと、いま一歩の寛容で歩み寄るのが知恵だろう。それを教えようと、神は耳を、かく作り給うたのかもしれない。
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