終わりと始まり 上から降る言葉 民主で「過保護」も変わる?
池澤夏樹(作家)
朝日新聞 10月3日
飛行機は前へ進んでいないと失速してしまう。自分も同じ性格らしく、何年かに一度は移動しないと次第に高度を失ってやがて地に落ちる。そう思って五年前にフランスに移り住んだのだが、そろそろ潮時と思って日本に帰ってきた。
二つの社会の間を行き来すると何かと違いが目につく。比べてどちらがいいと単純に結論は出せない。表面に見える現象の裏にはたくさんの要因が隠れている。その総体が歴史であり国民性であるのだろう。
日本でありがたいのはサービス業の充実。よくもまあそこまで気を配ってくださると思うほど行き届いている。例を挙げれば宅配便で、ああいうものはフランスにはない。重いトランクを三つ持って空港に着いても、なんとか自力で家まで運ぶしかない。
コンビニもすごい。平均的な消費者への対応が徹底していて感心する。その一方、日本の買い物には会話がないなと思う。フランスだったらどんな店でもまず互いの顔を見て「こんにちは(ボンジュール)」と言うところから始まる。比べると日本はまるでロボットの国のようだ。
買い物での「こんにちは」がない代わりに、日本ではふつうの市民=国民の頭上にたくさんのメッセージが降りかかる。
日本の空港に着いてまず思い出したのがそのことだ。そうか、ここはこういう国だった。「おかえりなさい」という主語不明の、しかし日本語民だけを相手にした看板を見てそう思った。そこにWelcome to Japanというのが非日本語民向けに添えてある。
その後は、あれをしろこれをするなという文字と音声の数々。乗客を安全・着実にしかるべき場所へ誘導するという意図はわかる。しかしその数が多すぎる。手取り足取りを超えて、かゆくないところにまで手が届く。
エスカレーターや動く歩道では「足元に気をつけて、黄色い線の内側に乗って、小さいお子様は手を引いて……」というアナウンスメントが延々と繰り返される。
気配りと思いやりであり、安全はすべてに優先するという方針の表れなのだろう。それが社会の雰囲気として定着しているから、それに反論するのはむずかしい。しかしぼくは他の国でこれほどの気配りと思いやりに接したことはない。
家父長的保護主義ではないかと思う。例えば、道路の制限速度をとても低く設定することもその一つだろうか。生理的に守りがたいから、大半の車が違法状態で走っている。官は民を信用していないらしい。すべての車が粛々と(官の好きな言葉だ)パトカーのように走るのが理想なのかもしれない。しかし、パトカーはひたすら路上を走り続ければいいが、一般の車はなるべく早くどこかに到着しなければならない。
日本は賑やかな国だ。
家の近くに交差点がある。大きなトラックが赤信号で止まる。左折のウインカーに伴って「左へ曲がります。ご注意ください」という機械的なアナウンスメントが大音声で繰り返し響き渡る。集合住宅八階の我が家で窓を閉めていてもはっきり聞こえる。
大型車の左折にからんで事故が起こることはわかる。しかしそれを防ぐのは車の側の責任だろう。スピーカーで人を押しのけていいものか。同じ交差点に、視覚障害者のための音声信号がある。高い位置に設置したスピーカーから偽の鳥の声が、朝七時から夜の七時まで、鳴り響く。偽の鳥の声はまるで動物園の檻の中にぬいぐるみが置いてあるように場違いだ。
視覚障害者のための配慮はもちろん必要。しかし、ぼくが知っている範囲でいえば、オランダでもオーストラリアでもニュージーランドでも、背の高さの位置でもっと低い(音量が少ないのではなく低音の)シグナルを使っていた。十歩離れると気にならないが、その場に立つと確実に聞こえる。
官から民へ言葉が降る。
あるいは、その場その場の管理者という官っぽい立場の人たちから管理される一般の人たちへ。
民と民の間では「こんにちは」さえ言いにくい。デモやストがほとんどない。メッセージを伝える手段がないから、少しでも先鋭な主張は2ちゃんねるの匿名の暗闘になる。顔と名前を出せば、五年前の「立川反戦ビラ配布事件」に見るように、郵便受けに紙を入れただけで有罪にされる。
先に社会の雰囲気と書いた。官が強いからある種の雰囲気が醸成される。慣れてしまうと気づかない。
たぶん自民党政権があまりに長く続いたので、官はこの党と和合してやっているかぎり、一切を自分たちの判断で進めていいと思うに至ったのだろう。自民党には支持団体への利益誘導以外に民の声を聞く姿勢はなかった。
農業でいえば連作障害の状態。疲弊して固化した畑の土は別の作物と深耕を待っている。民主党にどれだけの実力があるかわからないが、これを機に官が民に耳を開くとすれば、それだけでも政権交代の意義はある。
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