ロンドン 肉声に宿った物語
特派員メモ

朝日新聞 2013年5月10日(金)


自家用車のカーナビ音声がいつもと違う。円形交差点を指す「ラウンドアバウト」が「ランドバイト」と聞こえる。確かめたら設定が「アイルランド英語」になっていた。 同じ英語でも、英、米、カナダ、豪州などから選べる。しまも実際の人の声の録音だという。語彙(ごい)は豊富だけど、どこか冷たい人工音声とは違う「お国なまり」でのんびりドライブも悪くない。

街にあふれる人工音声に慣れた耳には、ロンドン地下鉄のエンバンクメント駅のアナウンスは新鮮に聞こえるはずだ。英国人俳優が40年前に録音した「マインド・ザ・ギャップ」(電車とホームの隙間にご注意)が、まだこの駅だけで放送されているのだ。

昨年、人工音声に切り替えたら年配の女性が「音声CDがほしい」とやってきた。4年前に亡くなった俳優の妻だった。ときどき駅を訪れては亡き夫の声に耳を傾けていたと聞き、地下鉄当局が俳優の声の復活を決めたという。

大都会の喧騒(けんそう)に隠れた情愛と粋な計らいを思い出し、ちょっと得した気分でホームに立つ。英国人らしい威厳がこもるアナウンスに気持ちが引き締まった。
(沢村亙)


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