天声人語

朝日新聞 2010年6月29日(朝刊)


日本の交通機関は、アナウンスも掲示も「お願い」が多い。ある地下鉄の優先席に〈ゆずりあう心が、明るい車内をつくります〉とあった。「つくる」という動詞に2つを思う。乗り心地は客にもよること、そして「こわす」者の影である▼東京の声欄に、少年(12)の投書「バスに乗ったらトンデモ乗客」があった。都下町田市。バスが5分遅れで停留所に着く。少年が母親と乗り込むと、男の客が女性運転士を怒鳴り上げたそうだ▼遅れに立腹したか、座っても車体をけとばし、手すりに足を乗せる。信号では「黄色なんだから突き進め!」。当然、車内は「とても怖い感じ」になった。降り際には、運転士の名を確かめるそぶりも見せたという▼4日後、当の運転士(46)の感想が載った。女性ゆえに当たりやすいのなら、これほど悲しいことはないと。「怖い思いをさせて申し訳ありません。でもありがとう。お陰で、これからも気持ちよく乗つてもらえるよう頑張る勇気が出ました」▼乗務員は客を選べず、客も隣人を選べない。とりわけストレスの発火点が低い都会では、車内のトラブルは茶飯事だ。大抵の大人は、険悪への感度を鈍らせる知恵を備えている。音楽や携帯電話で耳と目を「開店休業」にするのも1つだろう▼攻撃と防御がせめぎ合う都市のくらし。とんでもない客に当たった運転士や駅員も気の毒だが、居合わせた子どもはたまらない。耳目が無防備だから、とんがる空気に丸裸でさらされてしまう。怒声と鈍感が並走する車内で、ちいさな心が震えている。


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